先週あたりまで、怒涛の町田くん週間だった。
講演会が延期になってしまったのを埋め合わせるように、
本の出版に合わせてすごい露出だった。
昨日用事で出かけたら
私が町田ファンだと知っている友人が、毎日新聞をくれた
どうもありがとう!
文章はネットで見たのと同じ内容ではあるが
写真が白黒で落ち着いた感じだし、なんかホッとするな、紙媒体は。
ネット上で赤や黄色に囲まれてカッコつけてる(?)写真を見ると落ち着かない(笑)
私はそういうの求めてないのでw
いや、かっこいいねとは思うけどさ。
この新聞の写真みたいな感じで十分です。
インタビュー動画もいくつも上がりましたねー。
インタビューの中でも、この新聞記事の中でも、
演技を言語化して評価することが大事だと言っている。
映像も大事だけれど、言語での批評も大切。
それはまさに、演劇の劇評や、音楽・映画の批評と同じである。
芸術作品は、映像等でそのものを残すことは比較的簡単だ。
しかしそれについて、言語できちんと批評するということによって、
その作品の価値や存在意義、背景、歴史的位置づけ等が成されるのである。
良くも悪くも、評価されて初めて作品は存在意義が確立される。
私は一時期、劇評家になりたくて勉強していた。
(中途半端に終わってしまっているが)
つまり、劇評のようなもののフィギュアスケートにおける必要性を
町田くんは説いているわけでしょう?
そう思うと、すごく共感できるし、それはすごく大切で良いことだよね!って思えるなあ。
私も、見た舞台について、
面白いか・好きか嫌いかの感想のみならず、意義や価値について平等に正確に書こうと努力していたからね。
劇評も映画評も、老若男女いろんなライターさんがいて
さまざまな批評をしっかりと書いて発表している。
フィギュアスケート作品もそうなればいい。
町田くんが書いた、リッポンの「牧神の午後」評や、
かなクリの「桜」評 (そんな作品タイトルじゃないけどわかってねw) のような作品評を
他にも書ける人がたくさん出てきて
それを発表する場もできて
そうなればフィギュアスケート作品は、芸術として記録されていくし
文化的にも成長し根付いていく。
町田くんが「フィギュアスケートを文化に」と言って
それがどういうことかがずっと掴めないでいたんだけれど
ようやく答えというか、方法の一つが、具体的にわかった気がした。
気をつけなきゃいけないのは、
熱狂的なファンが多いから、おかしな騒ぎ(批評に対して叩いたり、ライターにおかしなレッテルを貼ったり)を起こすようなことがないように、ということだな。
自分の好き嫌いとは別に
批評は批評としてちゃんと受け止められるよう、
ファンも賢く冷静にならなくちゃいけない。批評眼を養わなければならない。
(それは町田くんも言ってるね)
そうならないと健全な文化に育たない。
そう思うと、フィギュアを文化として根付かせるのは、
まだまだ道のりは遠く、難しいことだと感じる。
でもそこへ、町田くんはきっと切り込んでいくんだね。
博士論文が立派な本になるだけでも、本当にものすごいことだけれど
本人も言っている通り、これは始まりに過ぎない。
この先、大きな「樹」がしげっていくことを、
期待しながら見守ろうと思う。